58年前に静岡県で一家4人が殺害された事件の再審で無罪の判決が言い渡された袴田巌さん。
袴田巌さんの姉の袴田秀子さんは、弟の袴田巌さんの無実をずっと訴え続けていました。
そんなは袴田秀子さんが結婚していたのかについて調査しました。
袴田秀子のプロフィール
袴田秀子さんのプロフィールはこちらです。
- 名前:袴田秀子
- 生年月日:1933年生まれ
- 出身地:静岡県雄踏町(現・浜松市西区)
袴田秀子は結婚していた?
袴田秀子さんは、22歳の時に結婚していたそうです。
22歳で結婚しましたが、性格が合わず、23歳の時に離婚しました。
引用:婦人公論
元旦那さんとの馴れ初めなど詳細については語られておりません。
再婚はしなかった
袴田秀子さんは、周りから再婚を勧められていたようです。
母や周囲は「しょうもない男でも男は男」とさかんに再婚を勧めましたが、私は「しょうもない男なんかと結婚してられるか。男なんか金輪際、ごめんだよ」と撥ねつけていました。
引用:婦人公論
よほど嫌なことがあったのでしょうか。
離婚後はキャリアウーマンとして20代を謳歌していたそうですよ。
袴田秀子は美人なキャリアウーマンだった!
袴田秀子さんの20代の頃の写真はこちらです。
とっても美人ですよね。
終戦後に中学を卒業してがら学校推薦で税務署に就職したそうです。
しかし、役所では女性はお茶汲みのようなことばかりさせられるため、それが嫌で民間の税理士事務所に移ったようです。
数字には強かったということで、幼少期から優秀だったのではないでしょうか。
その後に結婚しているので、もしかしたら元旦那さんは同じ税理士事務所に勤めていた方だったのかもしれませんね。
離婚後は、コーヒー会社に勤めたそうです。
女性社員は1人しかいなかったそうですが、社員旅行や週末の職場の人たちとの麻雀を楽しんでいたそうですよ。
袴田事件で生活は一変
袴田事件で、袴田巌さんが一家殺害容疑で疑われて逮捕された後は、毎日眠れない日々が続いたといいます。
巖の人格を貶めるような報道が相次ぎ、心ない言葉が耳に入ってきます。無実と信じていても、世間の風当たりに心が冷え、眠れない夜が続きました。深夜にウイスキーをあおり、二日酔いのまま出勤したことも。
引用:婦人公論
3年間は酒浸りの生活で心も体もボロボロだったようです。
袴田巌の支援の会が救いに
そんな袴田秀子さんの生活を変えたのは、袴田巌さんの支援の会の人々だったそうです。
支援の会は、袴田巖さんのの小・中学校の同級生で静岡大学の先生の渥美邦夫さんが呼びかけて発足。
冤罪を信じて活動してくれている支援の方々のおかげでお酒を断つことができたのだとか。
以来、仕事をする傍らで毎月必ず浜松から東京拘置所に足を運んでいました。
袴田秀子の人生の転機はマンションを購入だった
袴田秀子さんは、60歳を前に、何か生きるための目標を持ちたいと思うようになったそうです。
袴田巖さんが帰ってきたら、一緒に暮らせる家がほしいと思い、借金をして、4階建てのマンションを建設。
返済のために全室を人に貸してご自身は勤め先の一室を借りて暮らしていたそうです。
無事に完済して79歳でマンションに引っ越しました。
袴田秀子は81歳まで働き続けた!!
袴田秀子さんは、事件後は食品会社の経理を経て法律事務所で81歳まで働いたそうです。
マンションの返済のためにも、袴田巌さんのためにも必死で働いていたのでしょうね。
2024年には91歳になりますが、体は健康で医者も薬もいらないそうです。
健康のために40年以上続けているのは柔軟体操の「デコちゃん体操」。
4階の自宅まではいつも階段を使い、足腰を鍛えているのだとか。
袴田巌さんのために必死で無実を訴え続けてきた影では、日々の体力作りが欠かせなかったのでしょう。
最後にそんな袴田秀子さんの半生についての想いのコメントをご紹介します。
弟のために人生を犠牲にしたという気持ちはまったくありません。これが私の運命。父や母は巖の無実を信じながら早くに亡くなったから、親孝行の思いもあります。
巖の壮絶な人生に比べれば私の苦労なんてたいしたことない。私は自分のしたいように、自由奔放に生きてきただけ。こんなにたくさんの方に応援していただけて、本当に幸せ者です。
【追記】袴田巌の無罪が確定!
2024年10月8日に、検察トップの検事総長が控訴しないことを明らかにしました。
死刑が確定した袴田さんの無罪が確定しました。